古い魔女、新しい魔女

魔女になるには

今の時代、昔ながらの魔女、つまりイニシエイションを受け、魔女のカヴンに入り、先輩魔女から学んだり、訓練を受けたりしながらその伝統を受け継ぎ、といったようなタイプは今の人たちには必要とされなくなってきているのではないか、という話を聞きました。その話によれば実際、イギリスなどでも前述のような古いタイプの魔女より、ネット動画で魔女について発信したりそれを見たりする若い世代の魔女が多くなってきているらしく、カヴンのメンバーも減少し、高齢化も進んでいるそうです。たしかにそれは容易に想像できます。

しかしその話を聞きながら、最初に私が思ったのは

「でもそこで言われている新しい魔女たちは私や私が仲間だと思える魔女が実践しているものとは別物だな」

という事でした。少なくても私にはそうした新しい魔女たちの流れというものが自分が関係しているものと同じものには全然感じられないのです。だから「あれはあれ」としか感じません。もちろん、それを否定したりはしませんが「雁と雁擬きくらいの違い」を感じるのです。

現状を考えると、たしかに従来よりオープンにしたところでカヴンに入りたいという魔女志願者は多くはないと思います。きっともっと気軽で努力が不要のものの方が求められているのでしょう。そういう意味では私たちのような古いタイプの魔女は徐々に廃れていくようなものなのかもしれません。しかし、同時にだからといってなくなることも決してないと確信しています。元より人数を増やすことを目的としていたものでもないのですからそれはそれで良いと思っています。あとは自分なりに活動していけば、自分の受け継いだ伝統が誰かにはつながるでしょうし、それが大人数である必要はそもそもないわけですから。

ただ、この話の折に聞いた「アメリカでもイギリスでも私たちが実践してきたようなWitchcraftが『時代後れ』となってきたから『古い魔女から、新しい魔女たちに歩み寄らない限り、このまま廃れていくもの』というふうに思われている」という話は賛同できませんでした。それは私からすると明らかに「お互いに不幸になる道」でしかないのです。ここははっきりと言い切っておきます。

まづ先に私の一般論的立場をお話しすると、私は自分より後の世代の人たちが「私たちが想像もできないような凄い未来」を実現してくれそうな気がしていて、それについては完全他力本願でワクワクしています。私がその辺に関して妙に期待したり、素直に受けいれられるのはたぶん経験的なものから来ていると思っています。マウスもキーボードもプリンターもなかった時代のコンピューターからWindows3.1、95、98、NT、2000の頃まではその手の世界では一応結構先端の部分で仕事をしていて、人に教える立場だったのですが、今は子供の世代に習っている状態です。そういうがあると「ああ、もう自分の時代はこの分野では終わったな」と。でも私はそれが嫌ではないのです。むしろ、生まれたときからPCもスマホもインターネットも当たり前のものとして存在している世代に私たちの世代が敵うわけがないのです。

だから、未来の世代にまる投げできることが多いというのは結構楽しいし楽できるし、何が出てくるかワクワクするしで、ある意味いいことづくめだと思っています。そして私自身は、年寄りの経験が必要な部分で若い世代を支えつつ、一緒に歩いて行ければ良いと思っています。ただ、そこに迎合があってはいけないと考えています。安易な迎合は伝統などの大切なものを損なってしまうという大義名分論はとりあえず置いておいて、それ以上に「若い世代に対して失礼極まりない」と思うからなのです。私が若い頃、自分たちに迎合してくる大人は「便利で利用できる存在」ではありましたが、間違っても「尊敬できる存在」ではありませんでした。私は少なくても前者にはなりたくありません。

こうした思いがこの『古い魔女から、新しい魔女たちに歩み寄らない限り、このまま廃れていくもの』という考え方にかけらも賛同できない理由なのです。この歩み寄りがどうしても迎合にしか感じないのです。

「厳しいこと言わないよー」
「何でもネットでオープンさぁ」
「儀式?うん、いいよ!ネットで公開するね♪」
「口伝の奥義?うん、今の時代そんなの古いよねー。ネットで公開しておくね♪」

この「 」部分をちょっと音読してみてください。
どう考えても馬鹿にしているとしか感じないのは私だけでしょうか?
少なくても私には馬鹿にしているとしか感じられません。多少誇張した表現をしてありますが、内容がこういうことならいい方をいくら変えても同じことです。これで若い世代が喜ぶと思うと考えるのは失礼極まりないですよね。そして迎合とはこういうことです。たしかにSNS等を見ているとこういう迎合を求めている人が若い人の中にそれなりの人数いることは事実だと思います。そして多分それは少なくないのでしょう。でも、そうした人が「自分たちの跡を継いで次の時代をまっとうに作ってくれる」とは思えませんし、これは間違っていない確信があります。だから「お互いに不幸になる道」と言い切ったのです。

またいつもそうなのですが、新しい流れというものはそれこそ泡沫の流れのように現れては消え、消えては現れ、で結局残っているものの方が少ないと思います。何か出来の善し悪しは別としてそれこそ花火みたいに派手に現れ消えていく。そういうイメージだけが残っていきます。

そもそも「本物」は簡単に手に入りません。これはどの世界でも同じです。そして簡単に手に入るものに大した価値はないという事も真理です。これはどの時代、どの世界、どの分野でも絶対的な真理です。少なくても私はエンターティナーではありません。質の悪い量産品を作る工場主でもなく、一つ一つ、100年先にも200年先にも残る手作業の作品を残す職人なのです。

結局、全てを受けいれつつ、和而不同。赤塚不二夫の言葉が全てを物語ります。曰く「これでいいのだ」と。

魔女学校校長のひとり言へ

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