鐘のようであれ

校長のひとり言

「鐘は小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る」

という言葉があります。

この言葉の解釈、ためしにネットで検索したら色々なものが出てきます。
中には「人にものを頼んだり人物の大きさを知りたいときに大きな仕事を依頼してみれば、その人の大きさがわかる。小さい仕事ではみんなができてしまうのでわからない」などという人を試す方法だという斬新な(?)ものもあり「よくもまぁ、色々と考えるものだ」とあきれる、を通り越して感心してしまいました。

さて、そんなことに感心していても仕方ありません。
そもそもこれは坂本竜馬西郷隆盛を評して勝海舟に述べた言葉で、

「西郷は馬鹿である。大馬鹿である。小さくたたけば小さく鳴り、大きくたたけば大きく鳴る。その馬鹿の幅がわからない。残念なのは、その鐘(かね)をつく撞木(しゅもく)が小さいことである」

というもの。

しかし、この「小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る」というのは意外と難しい。
と、いうのも人間、自分が得意なものだったり、自分が熱心に打ち込んでいるものであっりりするとどうも

「鐘を小さく撞かれても、ついつい大きく鳴ってしまう」

というのが多いものだからです。
大きくなってしまう理由はいくつかありますが、

1つは人間得意なものにはつい饒舌になるもの。得意心からなのか、親切心なのか、おそらくそのないまぜがほとんどなのでしょうが、小さく撞かれたのに大きく鳴ってしまう。

2つ目は撞いた相手の力量も考えずに大きく鳴ってしまう。

そして3つ目は相手のこともお構いなく、自分のこともお構いなく、それこそ熱心などこぞの信徒がちょっとしたきっかけを見つけたら人に喰いついて離れないぞといわんばかりに熱烈に布教するかの如く、自分の打ち込む物に対する熱心さゆえの暴走。
他にも見つけるつもりならあるでしょうが、まぁ、大体この3つが大きな理由でしょう。

いづれも良くて有難迷惑、現実はた迷惑。

一見似ていてもこの原因、各々その根本は違っていたりします。
1つ目の根本にあるのは、傲慢、あるいはそこまで行かなくても謙虚さの欠如。大体は人の時間を不必要に奪うか、あるいは相手に自分で疑問を持つという能力を奪いかねないもの。
2つ目の根本にあるのは、人を思う気持ちの足りなさ。例えばこれを教師や親がやると手取り足取りやりすぎて何もできない子ができてしまうのと同じ。
3つ目の根本にあるのは、単純な自己中心性。これは仲間欲しさからなのか、自分の寂しさを埋めるためなのか、あるいは自分の達成感を得んが為なのか……等々。

しかし、どれも誰もが陥りがちなものであるのも事実です。

私自身、どれもかつて痛いほど身に覚えのあるものばかり。
「若さとはかように恥ずかしきもの」などと、格好つけてみた所で反省しきりであることもまた事実です。
それでも、この20数年はこの言葉を常に意識しつつ、それでも日々反省しつつという感じに過ごしてきました。
年と共に1つ目と3つ目はさすがになくなってきましたが、それと同時に2つ目はこころする必要が増えてくるのも事実。相手の事を思っているつもりで実は相手の可能性を潰してしまう危険というのは年とともに増えるものなのかもしれません。そうしたことに気をつけながらこの「魔女学校校長のひとり言」は書いておりますが、もしかすると反面教師の記事もあるかもしれませぬ。

逆もまた同じ。

大きくつかれても小さくしか鳴らないのは、大体がけちか自称謙虚、実は卑屈の現れ。

なかなか素直な大きさというものは難しいものです。
いつかは自分に「鐘のようであれ」ということなく、自然体で鐘のようにあることができるようありたいと思っています。

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